学んだことを忘れても良い

 何かを学んだとき、学んでいるときにはしっかり覚えていたにも拘らず、時間が経つとそのことをすっかり忘れてしまうということがよくあります。私はそのことについて悩んだ時期もありましたが、しまいには忘れても構わないだろうという結論に達しました。先日のことですが、偶然ある人とこの話になりました。その人は、学んだことを忘れたくないがために、本を読む際にはしっかりと記録をつけることにしたそうです。

 ところで、なぜ私は学んだことを忘れても良いとしたのか、それについて記していきたいと思います。

 

 まず、私の中で学ぶことの目的には二種類の分類が少なくとも存在していると思っています。一つ目は、「学んだことそのものを利用するため」というもので、二つ目は、「学ぶことで生きる方向性を求める、人生を豊かにするため」というものです。工学系の人間が、手を動かして数学の問題を解いてきた、あるいは学者、学生が何かについて歴史をまとめたり比較をしたりするための勉強の目的は前者で、余暇の時間の使い方としての学びの目的は、専ら後者であると思います。この二つに優劣が存在しているなどという話ではなく、目的として少なくともこの二つはあげられるのではないかということです。前者の目的に対しては板書、教科書等を写す(俗にいう写経)、音読といった、フィジカルなアウトプットをすることが多いです。長年の人類の歴史において伝承に用いられた手段である上記のものは、記憶に適していることは明らかです。反対に後者は、知識を取り込むだけで終えてしまうことも多いです。従って前述のように学んだことを忘れてしまいます。「あんなに時間をかけたのに」と嘆きたくもなりますが、忘れたその勉強も、無駄ではないのではないでしょうか。

 一つ目の理由として、忘れたと自覚することで、自分の意見と学んだ考えを区別しやすいためです。人はどんなに上手な覚え方をしても、時間の経過によって記憶を改変したり、都合よく解釈しがちであるため、「〇〇という人の考えでは〜」と、したり顔で誤りを述べるよりは、〇〇という人の書籍を含め、様々な考えを取り入れてきた自分の意見として述べる方が、幾分良いと思います。

 二つ目の理由として、学んでいる当時においては、学ぶことによって自身の生き方、考えかたは変化していた(と考えてよいでしょうから)、当然学ばなかった自分と、学んだ自分を比べると、その生き方は異なっているだろうと考えられるためです。人生の中で一度に起きる変化はごくわずかでありますが、そのわずかな変化を起こしてきた積み重ねは、良くも悪くも大きいです。(一度の変化分が小さいため、その時々での自覚は困難ではありますが。これについて私は、砂漠の例えを使うのが好きです。生きるということはは砂漠の中を彷徨いながらも歩いて行くことで、その足跡がいわゆる人の「人生」であるということだと考えると、歩く向きをどちらかの向きにほんの10°くらい変えただけでも、到着地点は全く異なっていますよね。)すなわち、忘れたかどうかに関わらず、勉強の効果は存在しているだろうということです。

 そして最後に、これは前向きに考えすぎであると言われても仕方がないかもしれませんが、一旦は学んだけれども、意味がない(役に立たない、使わない)との判断を下され、頭の奥に潜んでいた記憶が、ある時に他の知識と結合可能である、結びつけて考えられると知った時の喜びは計り知れず、そして学ぶことの楽しさを知覚できるという点において、忘れるということも悪くはないのではないでしょうか。

 

 くだんの人物と私の勉強の目的は異なっているでしょうから、私はその人にどうしたらいいなどと述べることはできませんが、専門科目以外にも愉しみを感じる私は、以上をもって結局は忘れてしまうと知りながらも、覚える努力を特にはせずに学ぶのです。

日本語の代名詞

 日本語を使っていて、(特に読むときですね)違和感を感じることがあります。伝えにくいので例文で示すと、私が違和感を感じるのは、

 人間における目は、動物におけるそれとは機能が全く異なる。(この文章はフィクションです)

というこの文の中で、「それ」という言葉が使われていることに私は違和感を感じるのです。

 なぜこの違和感が生じるのか、ということを述べていきますね。

 

 一つ目は、私たちは日本語を使うときに、そもそも代名詞(これ、それ・・・彼、彼女など)を多用しないという点。代名詞を使うことに慣れていない私は、例文のように玄人の用法で代名詞が使われると、少し身構えてしまうのではないかと思われます。したがって、

 人間における目は、動物における目と…

という文章では私のモヤモヤはやや晴れます。

 

 二つ目は、挙げられた例文のような代名詞の使い方は、英語ではしないということです。日本語と違って英語は、代名詞を使うのは「それ自体」を指すときであって、それと同等の別物(例文では、人間と動物は「目」を共有しているのではなく、視覚に関する器官である「目」を共通して持っており、それぞれが持つ目について比較している)の時はone (ones)という別の単語が使われるということです。従って英語に長らく触れてきた私は、このような文に違和感を感じるのではないでしょうか。

 

 以上ですね。実はこの文章全体は熟考する事なく感覚でスラスラと書き上げてしまったので、しょうもないミスをしていたり、根本的に間違いが含まれているような気がするのですが、気軽に問題提起をしたいという事で紹介します。

「優しさ」の押し売り

 普段に比してやや長い文章となっております。御苦労を要求することとなり、申し訳ありません。

 今日は、ここ最近ずっと考えておりました、「本当の優しさとは何か」ということについて記すことにします。巷では、優しい男性(女性)はモテる、あるいは優しいだけではモテない、ということや、少し拡張して話すと人間に大切なのは思いやりである、と言ったことが述べられています。このことの背景には、人間には優しい人と優しくない人(これだと反感を買いそうなので、「優しい人」ではなく「優しいとき」ぐらいにしておいたほうがいいのかもしれませんね)が存在していて、加えて少なくとも優しい方が優しくないよりは良いとしているということがあるのではないでしょうか。

 ここで一つ指摘しておきたいのが、「優しい」という行為は一般化して記述されることが多いものの、「優しい」かどうかを判断するのは行為の受け手であるということです。受け手の感情や気分、そして環境に依存するというよく分からないものではありますが、この直感的な考えを私は尊重します。それと同時に、これが「優しさとは何か」の全てであると思います。あくまでも「優しさ」とは受け手の感情の高揚を言葉で代替したものでしかない、それが私の考えです。しかしながら、ここで「優しさ」について困った問題が一つ存在していて、それは優しさの主観的判断を絶対視してしまうということがあるということです。分かりやすく言い換えると、ある人が友人に何か「優しいこと」をしてあげたときに、本来はその行為の動機が友人へのご厚意によって成り立っているはずなのに、友人が然るべき反応をしないからと言ってその人が不平を述べることが多々あります。私がこの行為を優しさからするのだ、という判断が、あたかも世界共通のものであるかのような勘違いをしてしまうということですね。

 このような例はたくさんあると思います。

 

 例えば、上司が部下に指導する際、上司は部下のためを思っているはずです。だから時々このような言葉を漏らしてしまいます。

「どうしてお前は俺の優しさをわかってくれないんだ」

後々になり部下が成長するにつれてこの言葉の意味がわかってくる、というような美談も存在するのは確かですが、そのような話ばかりではないでしょう。上司の誤った指導によって部下の成長が阻害されてしまうことも多々あるでしょうし、上司の指導方法によっては部下は有難迷惑に感じることもあるかもしれません。

 

 以上で述べてきた友人や上司の例はみなさんの身近にも存在しているので共感できるのではないでしょうか。しかしながら今回のお話で私が述べたかったのはもう少し踏み込んだ場合についてです。

 例えば、被災地のボランティアをしようと現地に駆けつける人たち。被災地の様子をメディアを通して知るたびに、いたたまれない気持ちになって動き出す勇気、行動力は認めます。被災者の方達から感謝されることも幾らかはあるでしょう。しかしながら、被災者の方達の目線に立ってみるとどうでしょうか。現場は混沌としていて、何をどうしたら良いのかもわからない状態、そこにさらに見知らぬ人が駆けつけてきたところで、口に出すことは憚られますが、邪魔に感じてしまうこともないとは言い切れません(あくまでも人によって感じ方は異なるので可能性としてですよ)。これに対して、もし仮にボランティアに駆けつけた人が、自分はなんて優しいんだ、あるいは被災者の方達は喜んでいるはずだと決めつけて自己優越感に浸っているとすると、それは間違いということもあるわけです。

 他にも、途上国の支援でも同様だと思います。「途上国を生きる人々はもっと豊かな暮らしをしたいはずだ」という考えから、物資を供給したり、家を建設したりしてあげる。当然その支援者がその場にいる間においては現地の方々は歓迎してたいそう喜んでくれるはずでしょう。しかしながら彼らが帰った後、その物資や家は適切に管理されるのだろうか。それらの技術を応用してより良いものを発明するに至るのだろうか。これらについては疑問です。その上、いつもいつも技術を持った方々が来てくれて支援してくれるとわかったら、途上国を生きる方達の技術革新へのモチベーションは削がれてしまいますよね。なぜなら自分たちがしなくても誰かがやってくれるから。ボランティアの人が「自分たちは優しさ(思いやり)の気持ちから支援をしにきた」という動機を持っていたとすると、それ自体は正しくないかもしれないのです。

 最後に、少し乱暴かもしれない言説を加えると、地球温暖化を予防するキャンペーン運動です。地球温暖化は実際に起きているのか、あるいは私たちにできることはあるのかなどなど、疑問は多くあります。(これらについて私は、あくまでも私たちができるのは私たちの住む地球を大切にしたいという思いから資源を大切にしようと考える、行動することのみであると考えています。話を戻しますね…)地球温暖化を防止しようと呼びかける時に決まって叫ばれる文言があります。それは

「私たちの子孫に住みやすい地球を残そう!」

というものです。私はこれに疑問を抱いています。なぜ私たちの子孫は、温室効果ガスの排出を削減した社会での生活を望んでいるということがわかるのか。(タイムマシンを利用して子孫が未来から来たわけでもないのに)どうして地球にとって二酸化炭素を排出することは良くないことなのか。私たちは人間として(ある程度)高度な知能を持っているとされていますが、あくまでも地球上に存在する生物であるため、地球にとって現在のような状態が起きることも想定済みであったと考えることもできるのではないでしょうか。あるいは現在の状況を俯瞰した(つもりをした)人間が、勝手に色々と考えて、人為的に帳尻合わせをしようとすること自体が地球にとってむしろ迷惑である、という考えには至らないのはなぜでしょうか。(だから私は資源を保全しようとこれからの活動に注意することしかできないのだと述べたわけです。)

 

 

 以上のことを考慮していくと、私たちは「優しさ」について考えなければならないことが見えてくると思います。

 まず、行為の主体としては、

「私たちは優しいから…をする」、「あなたのためを思って…をする」

という感情を一切捨てる必要があり、そして持つべき思考は、

「私がこの行為をするのは、『私は…という状態に対して、自分ができること(正しいと思うこと)をする人である。』という記号を発したいがため(そのような人でありたいがため)である。」というものである。

 続いて、行為の受け手としては、自分の立場と相手の行為を客観視して、

「…だから、彼(女)は〜をしてくれた。ありがたい。」

と思わなくてはならないと思います。

……このようなことが必要であると自分で書いていながら奇妙なことではありますが、これらがしかるべき姿である、とまでは私は思えません。感情を持ち、表現し、伝達し合えるのは人間に特有(であろう)ということを考えると、難しいことを考えずに感情に従うということも是とします。然るに私がわざわざこう書いて公開したのは、優しさにまつわる論争や競争(押し付けや順序づけなど)が少しでも減ることを願うためであります。

何者でもない何者である、という感覚

 最近読んだ本(確か「大人へのなりかたー青年心理学の視点から」 著 白井利明 新日本出版社 2003 だったと思います。曖昧で申し訳ないです。)書いてあったのですが、当時(15〜20年ほど前)の若者は、若者の振る舞い、と自分の振る舞いを区別して捉えていたらしい。すなわち、自分は若者であるにも拘らず、どこか他の「若者」とは違うという印象を持っていたらしい。これは最近の若者にも当てはまってはいないか、と思ったので記します。

 

 当初のような現象が起きるのは、メディア(当時では特に雑誌やテレビ)を通じて「『若者』はこういうことをする!」ということが伝えられるので、受けて自身の中に若者像なるものが形成されていくものの、それはあくまでもメディアによって形成された像であるから、自分とはどこか離れているということがあるからだそうです。

 現在の若者たちも、メディアを通じてSNSの使い方を知り、現代の若者は日常をこのように謳歌している、という話を鵜呑みにして、その輪の中に入ろうとしているような気がします。しかしながら、みんながみんな「若者」らしく振る舞えるわけではありませんから、TwitterInstagramのアカウントを紹介するときに、

「俺、大して面白い(映える)投稿してないよ〜」

や、友人と会話するときに

「私、コミュ障(陰キャ)だから〜」

というような「注釈」を付け加えるのではないでしょうか。

 仲間意識が働いて、「若者」の輪に入ろうとするけれども、自分と「若者」の間に乖離を感じて、それを主張する。そのような構図があると思います。

 

 しかしながら断言してしまうと、どの若者も「若者」の一部であり、「若者」全体を均質化したときの要素を兼ね備えていることは間違いありません。各時代において、生まれ育つ環境、見てきた物、大部分を共有しながら生きている(反対に言えば時代が異なれば環境は全く異なる)ので当然だと思います。

 かくいう私も、この時代において(電子ではなく)紙の書籍を読み(読書自体、しかも小説ではない本を読む人はそれほどいないかもしれません)、大学生には珍しく(?)好奇心旺盛に勉強しておりますが、それでも現代の若者らしさを感じるところはあります。例えば、先行き不安の世の中で少しでも希望が欲しいと生き方を指南するものに寄りついたり、他者を否定するのは好ましくないとジェンダー論を通じて多様性の学習をしたりです。これらは、自分が意識してやっていたのではなく、何と無く生き方指南の本、ジェンダー論の本が読みたくなったけれど、それは書店に行けば多様性の本、自己啓発の本があふれていたり、テレビをつけると権威にすがるような番組が流れていたりと、今の時代を生きていると、暗に読みたくなる本が定まっているという面があったのではないかということです。

 

 社会生活をする中で、自分自身のアイデンティティーが確立されていない(=自分は「若者」の一部でしかない)というのは苦しい事かもしれません。しかしながら、私があえて上記のように述べたのは、逆説的ではありますが

 自分は何者でもない、ということを一旦頭においておくことで他者との差異を発見しやすくし、それによって自分らしさの獲得につながるのではないか

と思ったからです。「分かる」ということには、第一に「差異の認知」が必要だと思います。(分ける→分けられる ですからね)「差異の認知」のためには、自分が当然だと思っていることをもう一度見直す、周りの姿を観察し、比較するということが欠かせません。それを後押しすることとしてまず、

 自分は何者でもない現代の若者である

と一旦ゆとりを持ってみませんか。

 

 

2つの「性」について

  前回の記事に、素晴らしい着眼をしたコメントがあったので、うまく答えられるかわかりませんが、回答しようと思います。純粋な回答に留まらず、書きたいことをしっかり書こうとすると、コメント欄に書くよりも新たに記事を作成した方が良い気がしたので、このような形をとります。

id:safunny 生殖と性はまた別物なのでしょうか。

男性性を嫌悪する - Tsuvaki’s blog

 

 答えから述べると、ある部分の性においては同じですが、ほかの部分の性では違うということになると思います。
 日本語では残念ながら、ご指摘になった生殖における(=生物学的)性と、社会的、文化的な性という、同じ語句なのに2つ存在しているという「性」を区別することができません。英語ではこの二つが、前者はsex(セックス)、後者はgender(ジェンダー)という形で区別されています。記事中ではその説明もなく、区別を明示して使うこともなかったので読み手の方を困惑させてしまい、申し訳ないです。さて、私が読んだ本はgenderの方に関する指摘をメインにしている本なので、今回の記事についてもgenderについて書いているとみて概ね問題はないでしょう。
 しかしながら、文中で性器について触れているように、sexの領域にも踏み込んでいるかのように感じる部分があるのも確かです。genderは確かに連続分布しているとのことで良いが、sexは生殖に関するから二分できるのでは?というように結論を下してしまいそうですが、実はこれまでの研究は、社会的に性は二分するのが妥当であるという見識が長らく続いてきたのでそういう見方の下(つまりメガネをかけた状態で)研究を続けてしまったというように考えることもできるそうです。学術的に正しいかどうかを完全に無視してもらえるという条件のもとで私の考えを述べさせてもらうと、生殖における性(=sex)は、数直線上に点を取ると0を基準点として正の数と負の数が分けられるように、男性寄りであるとか、女性寄りであるといったどちらかに偏っているという観点で決められるのではないでしょうか。世の中には両方の性器を保有する方も存在するので、二分できないという点は確かだと思います。

 

 前述のsexの研究に関して私が面白いと感じたことなのですが、genderという見方とsexという見方はどちらが先に生まれたのか、ということが話題に上ることがあります。このときに、我々人間は生殖活動を含む生物活動を長らく続けてきて、あるときから文化が発展していったという考えから、sexがあってgenderが発展してきたという見方が一般的だと思われますが、実はこの生殖活動において男女の二性を要する、というのは社会的に形成された性に対する見方ではないかという考えから、genderがsexの見方を規定してしまったのではないかと考えることもできるようです。

 

 

 私はジェンダーを専門としているわけではなく、あくまでも興味を持って調べているだけの身ではありますが、人間に関する基本的な事柄の一つであると思うので、これからも調べていき、これまでの考えに誤りがあれば修正したり、新たな考えを得た時にはそれを記事に上げていきたいと思っています。

 

男性性を嫌悪する

 ここ半年くらい、悩みというほどの悩みはなかったと思っていますが、唯一気にかかっていたことがありまして、それが表題にもある通り男性性を好ましく思えなかったということです。しかし最近、ある本を読んで少し心がゆるまったので記そうと思います。

 事の発端は、セクハラ問題について調べる機会があったことです。(いくつか本を読んだとはいえ、偏りがあることは自覚していますが、)セクハラ問題の多くは、男性の権利欲、独占欲、あるいは男性は女性に比して優位な立場にあるという「風潮」を利用して起きるとのことです。当該女性の思いを推し量ろうとすることなく、一方的な、そして自分にとって都合の良い解釈をして傲慢な態度を振舞ってしまう男性からの被害を、図らずも受けてしまう女性に対して、憐れみの気持ちで一杯でした。

 女性は少しくらい強引な男性の方が好き、あるいは女性の「イヤ」は「もっとしてほしい」を暗に示しているなどという、真理とは言い難い話が広く知れ渡っているのは、異常でしょう。

 この問題に関連したことももっと知りたいと、私は「ジェンダー論」、「女性学」、「男性学」などに関する書籍も様々読んできました。あるいは、女性の貧困に関する本も読んできました。そして世間の実情を深く知るたびに、男性は欲に溺れていて自分が身を引くということ、他者に共感することを知らないのではないか。女性を性的な目で見ることしかしない、性欲処理のモノとしてしか見ていないのではないか。と思うようになりました。

 私自身も例外ではありません。このように男性であることを嫌なことと感じる一方で、自分自身にもそのような面があること(例えば、美人な女性がいたら見とれてしまったり、男性と女性に対してでは異なる態度をとったりすることなど)を恥ずかしく思い、私はどうあれば良いのかと途方に暮れていました。

 

 そんな中、ある本に出会いました。

「男であることを拒否する」(著:ジョン ストルテンバーグ, 監修:蔦森樹, 訳:鈴木淑美, 2002,勁草書房

 タイトルからして今の自分にぴったりな本だと感じたので、すぐに読み始めると、丸一日で読破してしまいました。中には、現在にはすでに改善されつつある問題も、当時未解決で話題に上ることすら珍しいというような口調で語られているものもあったり、やや表現が大袈裟なのか訳がうまくいってないのか分かりませんが、読んでも全く理解できない箇所もちらほらとありましたが、読んで良かったと思う一冊でした。

 

 著者の一番伝えたかったことであろう(かつ、私の一番感銘を受けた)箇所は、そもそも、「男性」や「女性」という性別の二分法自体、自然的なものではなく、人間が社会的、政治的に作り出したものである、というところです。(記憶を頼りにしているので確実には一致していないですが...)

 勉強や体力、感情などの面において小さい頃から当然のものとして性差を意識させられた我々には気づきにくいのかもしれませんが、あらゆる面において「男性だから...」「女性だから...」と二分して断定できるようなものはなく、むしろ性とは連続して分布するもの、その人にはその人の性があるものなのです。(性器を取り上げて、男女を区別する声が一番大きいでしょうが、性器自体が各個人に特有のものであるし、男女の違いであっても、受精後の一定期間において元となる細胞にその違いは見られません。ましてや運動能力や学習能力における性差は、まだはっきりとは解明されていないので断定はできないはずです。)すなわち、私たちに求められるのは、2つの性というメガネを通した状態で人を見るのではなく、その人自身と向き合う努力です。

 

 以上のことを知ると、私の「男性性の嫌悪」も男性というメガネを通して人々を見てしまっていたことに気づきます。元来は一人一人が過度に苦しむことなく生きられる世の中を願って、男性性に嫌気がさしたのに、性別の違いにこだわりすぎては見えるものも見えなくなってしまいますし、何より自分自身が苦しむことになっては元も子もありません。また、男性性の嫌悪となるとフェミニストの話題が上るかもしれません。「フェミニスト」であるということや「アンチ・フェミニスト」であること、その他諸々、性に関する立場は存在していますが、私はそうではない。性別がどうだという話にこだわることなく、一人一人の人間と向き合っていく、その人の考え方を尊重する人でありたいと思っています。

 

 

 最後になりますが、科学分野を学ぶ身でありながらジェンダー論を並行して学ぶと、あることに気づきます。それは、太古から人類は

「自分は、物事をありのままに見ることができている」

あるいは

「いま正しいと信じられていることは、疑いようもない真理である」

という「勘違い」を持ち続けています。しかし、どこかで「真理」を正して(方向性を変えてという方が正しいのかも)人類は成長し、新たな視点を得てきたということです。

 古代ギリシアでは、万物は火、空気、水、土から構成されていると信じられていました。

 ガリレオの生きた時代までは、重いものは軽いものより早く落ちると信じられていました。

 アインシュタインの生きた時代までは、時間とは絶対的なものであり、誰もに等しく流れるものであると信じられていました。

 21世紀までは、人間は二つの性に分けられ、男性は女性より優位であると信じられていました。となるのでしょうか?

 

 

p.s.

 小学校の頃からあれほど嫌いで、長期休暇になることが憂鬱で憂鬱で仕方がなかった諸悪の根源、読書感想文を自ら進んで書くときが来るとは驚くべきことでありますが、実際に書き始めてみると原稿用紙5枚など、優に越えるであろう文章量を2時間程度で軽々と書き上げられるようになってしまったことに、さらに驚いています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

日本の将来は明るい

 専門知識が乏しいことは自負しておりますが、現在の日本という国を考えた時に、あらゆる分野において存続の危機にあるという雰囲気を感じることがあります。何と無くそう感じる、という程度なのですが同じような経験はみなさんにもあるのではないでしょうか。

 教育の分野では、日本の教育成果はだんだんと落ちています。(大学ランキングを持ち出して日本の教育の没落について同調する意見はたくさんあることから、教育制度がよろしくないということに与する方は多いのでしょう。ランキング自体の正確や公平さについては判断しかねますが。)

 社会保障の分野では、日本は今後も少子高齢化するという判断のもと、制度の存続を危惧する方々はたくさんいらっしゃいます。

 日々様相を変える国際情勢において、日本の立場を不安視する声はたくさんあります。

 様々な経済政策が打ち出されるものの、その成果が感じられない方も多いようです。

 

 上記のような不安の声に呼応するように、日本はもう崩壊寸前で、国際的にその立場を維持することはできないと声高に叫ぶ「有識者」の方々はたくさんいます。しかしながら私は、彼らのことを決して「知性のある人々」と呼ぶことはできません。

 

 「日本の反知性主義」(晶文社内田樹編)という本を読んで得た考え方なのですが、「知性」というものは物事をたくさん知っている、だとかテスト等で良い成績を取れる、資格を持っているというようなことでは判断できません。(すなわち、知性を定量的に測定することはできません。)それでは、「知性」とは何か。「知性」とは、その人がいることによって他人の生物的能力を活性化することができるという能力を指します。例えば、その人がいることで、帰ってから少し勉強を頑張ろうと思えた。その日1日を楽しく過ごせた。好奇心が新たな分野に向けられた。そういうことを可能にする能力のことを、「知性」と呼びます。反対のことを言ってしまえば、その人自身がどれほど博識であっても、その人の行動によって周囲の人が萎えてしまえば、その人は知性的ではないのです。

 当初に述べた日本の立場を危惧する声は、日本の市民の生活を楽しくすることもなければ、豊かにすることもありません。そのような声が上がるたびに、私たちはただ、毎日の暮らしをどう生き永らえるのかに神経を使うことになってしまいます。 確かに日本の将来を不安視する根拠は十分に揃っていますが、それをただ率直に口に出して良いのでしょうか。

 

 歴史の中で、日本が天災によって甚大な被害を受けたとき、戦時中や戦後間もない時期、あるいは日本に黒船が来航したとき。全ての時期において、日本人は震えるほどの恐ろしい思いをしたはずであり、将来を不安視したであろうことは間違いないはずですが、彼らがよりよい時代を作るための一歩を歩んできたことは確かです。

 今時の若者はゆとり世代で役に立たない、向上心がない。確かにそれはそうかもしれません。しかし、その若者を教育した、あるいはその教育制度を作ったのは、文句を述べる方々そのものであります。さらに付加すると、現在の日本の暗い雰囲気を作り出しているのは、バブル崩壊後を生産年齢として生きてきた方々ではないでしょうか。

 私のしたいことは、日本の先行き不安の原因について、その罪をなすりつけ合うことではありません。日本という大きな枠組みで見たときに、誰が悪いなどと断定することはできないのではないかと述べたいのです。

 

 そんな中、我々の生存能力を最も高めることといえば、毎日を前向きに楽しく生きることでしょう。起きるかどうかわからないことを考えて苦悶するよりも、自分の能力を最大限に発揮しようと考える方が生産的です。日本の先行きはわからないけれど、自分は今、毎日精一杯生きている、楽しく生きている、そう思う人が増えれば増えるほど、日本は良い方向に向かうのではないでしょうか。未来のことは誰にもわかりません。「案ずるより産むが易し」です。

 人々は不安感を抱くときに強力なリーダーを求めやすいです。そして扇動者に騙されやすいです。そうやって誤った道へ進んでしまうことを防ぐためにも、とりあえずは明るい日本の将来を信じて、生存能力を高めるべきです。

 

 えっ、一度は日本の情勢が上向いたけれど、人々が能天気に生きるせいでそれこそ誤った道へ進みそうになったらどうするかって。それこそ、「真の知識人」が軌道修正するときです。